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明治の三筆、江越の縁で有田へ

中林梧竹なかばやしごちく

元小城藩士。江越礼太とは縁戚関係であり、長子・中林経雅は有田の江越の塾生でもあった。有田に何度となく訪れて、その書が多く残されている。


文政10(1827)年〜大正2(1913)年 87歳

中林梧竹の生涯

林梧竹(以下、梧竹と略)は、幕末・明治期を代表する書家で、日下部鳴鶴や厳谷一六とともに「明治の三筆」の一人に数えられます。
幼いころは草場佩川に師事し、19歳のときに江戸に遊学、山内香雪に書を学びました。28歳で帰藩し、小城藩士として小城藩藩校・興譲館指南役などを勤めています。
明治維新後は、長崎に移り住み、明治11(1878)年に清国の初代長崎領事の余(よ)元眉(げんび)から中国最新書法の拓本提供を受けました。その後、余元眉の帰国とともに清国に渡航しました。明治17(1884)年に帰国、以降は東京銀座の「伊勢幸」に約30年間住みながら、全国を遍歴しています。
明治41(1908)年、三日月村(現小城市)に観音堂を建立し、堂内には中林家代々の木牌とともに先師3人(草場佩川、山内香雪、余元眉)の木牌が安置されています。
大正2(1913)年、梧竹87歳で死去しました。

有田とのかかわり

中林梧竹は元小城藩士で有田の実業教育に尽力した江越礼太とは縁戚関係です。そういう縁もあって、梧竹は度々有田を訪れており、有田には梧竹の書が数多く残されています。
陶山神社(有田町大樽)の社殿には、梧竹による「陶山社」の扁額が掛けられていますが、これは社殿が改築される前年の明治12(1879)年に納められたものです。
「橘常葉遊学日記」(長崎・千々石出身の橘常葉が記した有田滞在記)には、明治24(1891)年に梧竹が東京から長崎へ来るとの知らせを聞いた江越礼太が、病を押して長崎へ行ったことや、翌年に江越は長崎で亡くなりますが、この間に梧竹は再三訪れたことなどが記されています。